Masuk商会が正式に動き出してから三週間で、エリナは一つの結論に至った。
ルシェムは小さすぎる。
市場の規模、住民の数、購買力——すべてが限界に近づいていた。石鹸の需要はまだあるが、供給が追いついている。薬草薬も、この町では買える人間にはほぼ行き渡った。次の成長には、新しい市場が必要だ。
外に出る。
その判断をしてから、エリナはゴードンと一週間かけて情報を集めた。
ルシェムから馬車で半日の距離に、ベルナという町がある。人口はルシェムの三倍、街道沿いの宿場町で商人の往来が多い。そしてベルナには、ロッソ商会という中規模の商会があった。食料品と日用品を扱う老舗で、この地域一帯に販路を持っている。
「ロッソ商会のベルダン会頭は、新しいものに目ざとい人間だと聞いている。ただ——交渉は厳しい。値切りが激しく、条件をとことん詰めてくる。生半可な準備では相手にされない」
「逆に言えば、条件を飲ませれば長期の取引になる」 「そういうことだ」エリナは頷いた。
「行く。アポイントを取って」
ベルダン会頭との面会は、五日後に取れた。
当日の朝、エリナはいつもより早く起きた。服は母のセレーナが夜通しかけて仕立て直してくれた一張羅だ。古い生地だが、縫い目が丁寧で清潔感がある。髪を丁寧に整えて、サンプルの入った革鞄を持った。
マリオが馬車を手配していた。ハンスの知り合いが持つ荷馬車だ。御者台に乗ったマリオが、エリナを見て少し目を丸くした。「……なんか、いつもと違う」
「服が違うだけ」 「そういうことじゃなくて」 「行くよ」エリナは荷台に乗り込んだ。マリオがそれ以上は言わずに手綱を取った。
ゴードンが隣に座った。膝の上に書類の束を乗せている。昨夜も遅くまで数字を確認していたのを、エリナは知っていた。「緊張しているか?」
「していない」 「正直に言っていい」 「していない。考えることがありすぎて、緊張する暇がない」ゴードンが、静かに笑った。
ロッソ商会の建物は、ベルナの中心部にあった。
石造りの二階建て。入り口に商会の看板が出ていて、中から人の話し声が聞こえる。活気がある。それだけで、商会として機能していることがわかった。
受付の男が、エリナを見て一瞬だけ表情を変えた。子どもが来た、という顔だ。でもゴードンが名刺を出すと、奥へ案内した。 通された応接室は広くも狭くもない。革張りの椅子が四脚、中央にテーブル。窓から通りが見える。ベルダンは五分後に現れた。
六十代手前の男だ。体格がよく、日焼けした顔に深い皺がある。長年商売をしてきた顔、とエリナは思った。目が鋭い。入ってきた瞬間から、すでに室内を値踏みしていた。
ゴードンと握手して、それからエリナを見た。「これが、噂の商会の実質的な運営者か」
「エリナ・アッシュフォードと申します。本日はお時間をいただきありがとうございます」 「アッシュフォード……」ベルダンが少し目を細めた。
「没落した侯爵家の娘が商売をしているとは聞いていたが、本当に子どもだったな」
「年齢は関係ないと思います」 「そう思うのは子どもだけだ」ベルダンが椅子に座った。
「だが——わざわざ来たからには、聞くくらいはしてやろう。何を持ってきた」
エリナは革鞄を開けた。
テーブルに並べたのは六点だ。石鹸三種類——標準品、香草入り、肌の弱い人向けに刺激を抑えたもの。豆のペースト二種類——標準品と、保存期間を延ばした長期保存版。そして消毒液。
それぞれの隣に、小さな説明書きを置いた。成分、使い方、効能、価格。
ベルダンが一つずつ手に取った。石鹸の匂いを嗅ぎ、ペーストを少量指につけて舐め、消毒液の栓を開けて確認した。表情は動かなかった。
これは交渉上手な人間の顔だ。判断は内側でしている。「ルシェムで衛生状態が改善したという話は聞いた。子どもの病気が減って、傷の治りが早くなった。石鹸のせいだと言われているが、本当にそうなのか」
「因果関係の完全な証明はまだ途上です。ただ——」エリナは書類を一枚取り出した。
「ルシェムの過去二年の病人数と、石鹸が出回り始めてからの三ヶ月の比較です。数字をご覧ください」
ベルダンが書類を取った。
数字を読む目が、少し変わった。商人の目だ。感情ではなく、損得で動く目。その目が、数字の意味を計算している。
「……病人が減れば、仕事を休む人間が減る。生産性が上がる。それが購買力に繋がる」
ベルダンが独り言のように言った。
「そうです。石鹸は衛生用品ですが、経済効果があります。使う人間が増えるほど、その町全体の活力が上がる」
「大きく出たな」 「数字の裏付けがあります」ベルダンがしばらく書類を見ていた。
それから顔を上げて、本格的な交渉が始まった。「石鹸を月に百個、ペーストを五十個、仕入れたい。ただし、今の販売価格から三割引きで」
三割引き。エリナは計算した。材料費と人件費を考えると、三割引きでは利益がほぼ消える。
「二割引きまでなら可能です」
「二割五分だ」 「二割一分」 「二割三分」 「二割二分。ただし条件があります」ベルダンが少し目を細めた。値引き交渉の途中で条件を出す——予想していなかったのかもしれない。
「聞こう」
「一つ目、独占販売権をベルナとその周辺三町に限定する。他地域は我々が別ルートで販売する権利を留保する」 「それは構わない」 「二つ目、ロッソ商会の配送ネットワークを使って、注文から納品まで十日以内を保証してほしい。在庫リスクをこちらが持つ代わりに、配送はそちらに負担してもらう」ベルダンが少し考えた。
「配送コストが乗る分、うちの利幅が減る」
「その分、販売価格に転嫁できます。消費者への説明は我々が資料を用意します。品質の証明書付きで。それがあれば、多少高くても売れる」 「品質の証明書?」 「使用前後の効果を比較した説明書きです。ルシェムの事例と数字を添えて。消費者は正体のわからないものより、説明のあるものを選びます」ベルダンがしばらく黙った。
エリナは急かさなかった。ゴードンも動かなかった。マリオは扉の外で待っているから、この場にいない。静かなのは、エリナとゴードンとベルダンの三人だけだ。「……三つ目はあるか?」
「あります」 「言え」 「半年後に取引量を見直す機会を設けてほしい。実績が数字で出た時点で、こちらの卸値を再交渉したい」 「上げるつもりか」 「下げる可能性もあります。量が増えれば原価が下がるから」ベルダンが少し動いた。目の奥に、何か変わったものがあった。
「……量が増えれば原価が下がる、とはっきり言う商人は少ない」
「本当のことだから言います。嘘をついて長続きする取引はない」沈黙があった。
長い沈黙だった。ベルダンが指でテーブルを軽く叩いた。考える時の癖だろう。 それから言った。「わかった。条件を飲もう。二割二分引き、配送はこちら持ち、半年後に再交渉。ただし最初の三ヶ月は試験期間として、月の発注量を七十個と三十個に抑える。実績が出たら百個と五十個に戻す」
エリナは一秒だけ考えた。試験期間は想定内だ。数字も許容範囲内。
「同意します」
ベルダンが手を差し出した。エリナはその手を握った。
大きな手だった。何十年もの商売が染み込んだ手だ。自分の手がその中に収まった時、エリナは少しだけ、自分がまだ子どもだということを実感した。
でも握り返す力は、負けない。帰り道の馬車の中で、ゴードンが口を開いた。
「見事だった」
「条件は最低限は守れた」 「それだけじゃない。ベルダン会頭は最後、あなたのことを値踏みではなく見ていた。対等な相手として」エリナはそれを聞いて、窓の外を見た。
ベルナの町が遠ざかっていく。街道沿いの木が、風に揺れていた。「量が増えれば原価が下がると言ったのが効いた、ということ?」
「商人は自分に有利なことしか言わない、と思っている。あなたは不利になる可能性も含めて話した。そういう人間は、信用される」エリナは頷いた。前世で何度も見てきたことだ。短期的な利益のために嘘をつく人間は、長期的な信頼を失う。どちらが得かは、計算するまでもない。
御者台のマリオが声をかけてきた。
「どうだった!」
「取れた」 「やったあ!」マリオが派手に喜んだ。御者台で立ち上がりかけて、ゴードンに「危ない」と注意された。
エリナは小さく笑った。 声に出た。 それが少し意外で、自分で少し驚いた。 長屋に戻ると、セレーナとルナが待っていた。 結果を話すと、セレーナが目を潤ませた。ルナは表情を変えなかったが、いつもより少し早く頷いた。夜、エリナは帳簿に今日の交渉結果を記録した。取引条件、発注量、納品スケジュール、半年後の見直し予定。
書き終えてから、欄外に小さく書いた。最初の大口取引、完了。
それだけだ。感想も、感慨も書かない。帳簿は数字と事実のためにある。
でも書いた後に、少しだけ手を止めた。 ベルダンの大きな手の感触が、まだ残っていた。次は王都だ。
エリナは帳簿を閉じた。
ルシェムからベルナへ。ベルナから、次はもっと大きな場所へ。 一手ずつ、確実に。 アッシュフォードの名前を、この世界に刻むために。 ランプを吹き消した。暗くなった部屋で、エリナは目を閉じた。 眠りにつく直前、ふと思った。 今日の結果を、レインに話したら何と言うだろう。 考えて、すぐに首を振った。 情報共有の相手として有用だから、そう思っただけだ。 それだけのことだ。 ……それだけのことだ。フィオナからの緊急の手紙が届いたのは、夜の八時を過ぎた頃だった。 エリナはまだ起きていた。薬草の分類図を更新する作業をしていた。ルナが新しく持ってきた種類を、既存の図に書き加える地味な作業だ。 戸口をマリオが叩いた。 「早馬だ。フィオナさんから」 封蝋の葉っぱの印が、いつもより深く押されていた。急いで押したのだろう。 開けると、一枚の紙だった。短い。 エリナへ 今夜、動く。 クロヴェル侯爵が、明日の朝、魔法省の内部会議でアッシュフォード商会の「危険性」について議題を提出する予定だ。内容は「魔法師の職域を侵す商業活動の規制について」。これが通れば、石鹸と薬草薬の販売に、魔法省の許可証が必要になる。許可証の発行はクロヴェルが握る魔法省が管轄する。つまり、永遠に許可が下りない仕組みを作られる。 情報源は確かだ。今夜中に手を打つ必要がある。 アルバ殿下には既に連絡した。殿下は「動ける」と言った。 一つだけ聞く。ダリウスに、連絡を入れていいか。 ――フィオナ―― エリナは手紙を読み終えて、すぐに立ち上がった。 「マリオ、ゴードンさんを呼んできて。今すぐ」「何かあったか?」「明日の朝までに動く必要がある」 マリオが走り出した。 エリナは机に向かって、フィオナへの返事を書いた。 『ダリウスへの連絡、任せる。ただし、こちらから何かを「頼む」形にはしないこと。彼が自分で判断できる情報だけを渡す形で』 書いて、すぐに封をした。 早馬の使いはまだ外にいた。返事を渡して、すぐに戻るよう頼んだ。 ゴードンが来た。 エリナは状況を三分で説明した。 ゴードンが黙って聞いて、口を開いた。 「魔法師の職域を侵す、という論理は、感情的な支持を集めやすい。特に中小の魔法師たちは、自分の仕事が脅か
ゴードンが記録をまとめ終えたのは、三日後の夕方だった。 机の上に積まれた書類の束を見て、エリナは少しだけ目を細めた。 厚い。 石鹸の販売を始めてから現在まで、一年半近くの記録がすべて入っている。供給量、販売数、各町の病人数の推移、傷の治癒事例、消毒液の使用結果、流通の記録、さらにゴードンが独自に集めた周辺の薬屋の売上動向まで。 「これだけあれば、学院の反論を数字で押し潰せます」「押し潰す、という言葉を使うとは」「珍しいですか」「少し」「長い間、不正を見ながら動けなかった人間は、数字で正義が証明される瞬間に弱い」 ゴードンが静かに笑った。「私がそうでしたから」 エリナはゴードンを見た。 この男がそういう話をするのは、珍しかった。 「商人ギルドで告発した時のことを、思い出していますか」「たまに。でも、今はそれより、この数字の束の方が大事です。過去のことより、これから使えるものの方が」「そうですね」「送付の準備をしましょう。学院宛てに、レインさん経由で」「お願いします」 書類の束を封筒に詰めながら、エリナはレインへの手紙を書いた。 データの送付について説明し、各項目の見方を簡単に注記した。 最後に一行、付け加えた。 『前の手紙で「今日は何日か」と聞いた理由を、まだ教えてもらっていない。』 書いてから、少しだけ止まった。 催促のような一行だ。 でも、気になるのは本当のことだから、書いた。 封をした。 翌日の朝、ヴァロウのマグダから珍しく本人が来た。 馬に乗って、一人で来た。息が少し上がっている。 「エリナちゃん、ちょっといいかい」「どうぞ。何かありましたか」「悪い話じゃないんだけどね」 マグダが台所の椅子に座った。「ヴァロウで、面白いことが起きてる」「面白いこと?」「
レインからの返事が届いたのは、手紙を出してから四日後だった。 その日の朝、エリナは誕生日を迎えていた。 八歳になった。 特別なことは、何もなかった。朝に目が覚めて、顔を洗って、台所に行くといつもの薬草茶が置いてあった。セレーナが先に起きていて、エリナを見て静かに笑った。 「おめでとう」「ありがとう」「何か食べたいものはある?」「いつも通りで」「少しくらい特別なものを頼みなさい」「じゃあ、パンに蜂蜜を」「それだけ?」「十分です」 セレーナが少し困った顔をして、でも笑いながらパンを焼いた。 蜂蜜は高いが、少量なら商会の収益で賄える。そういう計算を瞬時にして、でもそれを口に出さなかった。 出さなくて正解だったと思う。 マリオが朝一番に来て、開口一番に言った。 「誕生日おめでとう! 八歳になったな!」「うん」「何か欲しいものはあるか?」「今のところない」「つまらないな。じゃあ、今日は俺が荷物の確認を全部やる。お前は好きなことをしていい」「好きなことというのが、難しい」「難しい?」「好きなことをしろと言われても、やることが山積みなので」「それを忘れろ、今日一日だけ」「忘れたら困る」「本当につまらないな、お前は」 マリオが笑いながら作業場に入っていった。 ルナは何も言わなかった。ただ、その日だけ、猫を一匹エリナの膝に乗せた。理由を聞くと「誕生日だから」とだけ言った。 ゴードンは帳簿の端に小さく「祝 八歳」と書いて、それ以上は何もしなかった。 それで十分だった。 昼過ぎ、使いの男が手紙を持ってきた。 王都からではなく、王立魔法学院からの封書だった。 エリナは封を開けた。 エリナへ 父上の言葉について、書いてくれてありがとう。『この子は私よりうまくやる』という言葉
橋が開いてから一週間が経った頃、母のセレーナが熱を出した。 朝、エリナが台所に行くと、セレーナが椅子に座ったまま額に手を当てていた。顔色が白い。目の下に影がある。 「お母さん」「大丈夫よ」「大丈夫には見えない」「少し疲れが出ただけ。強化した袋を夜遅くまで作っていたから」 エリナはセレーナの額に手を当てた。 熱い。体温計はないが、明らかに平熱ではない。 「今日は寝ていて」「でも縫製の仕事が——」「後回しにできる仕事は後回しにする。できない仕事は、後で謝って期限を延ばしてもらう。どちらも、お母さんが倒れるよりはいい」 セレーナが少し笑った。 「あなたに言われると、反論できない」「反論しなくていい。寝ていて」 エリナはセレーナを寝室まで連れて行き、布団を掛けた。薬草茶を作って枕元に置いた。発熱に効くカモミール系の花と、解熱作用のある葉を合わせたものだ。 「これを飲んで。一時間ごとに様子を見に来る」「大袈裟よ」「大袈裟じゃない」 エリナは寝室の扉を少しだけ開けたままにして、台所に戻った。 ルナに今日の母の状態を伝え、薬草の追加を頼んだ。ルナはすぐに頷いて、棚から必要なものを取り出した。この子は、説明を最小限にしても動ける。 マリオには、今日の荷物の確認を一人でやってもらうよう頼んだ。ゴードンには、縫製の納期について取引先に連絡を入れてもらうよう頼んだ。 役割を割り振り終えて、エリナは一時間後に寝室を覗いた。 セレーナは眠っていた。薬草茶は半分、飲まれていた。 昼過ぎ、セレーナの熱が少し下がった。 目が覚めたセレーナが、水を一口飲んで、エリナを見た。 「ごめんなさい、心配させて」「謝らなくていい」「でも」「体が資本というのは、お母さんにも当てはまる。私だけ
流通が止まってから五日が経った。 その五日間、アッシュフォード商会は止まらなかった。 迂回路を使い、猟師のベルトが週三回荷物を運んだ。量は減ったが、ヴァロウとトレネへの供給は続いた。マグダが現地で在庫を管理し、シェナが薬草薬の一部を現地調合で補った。キーシュのジルカは海沿いの別ルートを一本確保して、南方面への影響をほぼゼロに抑えた。 ゴードンは毎日、王宮への定期報告書に一行だけ追記した。 「流通の一時的な制限により、供給量が通常比七割となっております。代替手段により、医療的効果を持つ商品については継続供給中」 七割という数字を、正確に記録した。 困っているとも、誰かを責めるとも書かなかった。 ただ、事実を、正確に。 「これが大事なんですか」 マリオが横で帳簿を眺めながら聞いた。 「王宮への記録に残す、ということが?」「そうです。供給が減った理由を書かずに数字だけ書いていれば、誰かが後で見た時に『なぜ減ったか』を調べることになる。調べれば、流通の停止が見えてくる」「じゃあ、クロヴェルが止めたって、わかる?」「わかる人間には、わかります」 マリオがそれを聞いて、少しだけ顔を明るくした。 「賢いな」「エリナさんの方針です。直接告発するのではなく、数字で語る」 五日目の夕方、フィオナから手紙が届いた。 いつもより分厚かった。 エリナへ 動いた。結果から書く。 明日の午前、橋の検問が解除される見込み。理由は「書類確認が完了した」という公式発表になる予定。 裏で何があったか。 アルバ殿下が、地方道路管理局に対して「王宮からの商業視察対象商会の荷物について、優先的に通行を確保するよう」という非公式の通達を出した。命令ではなく、「配慮のお願い」という形。これで局長は「殿下の意向に従った」という体裁が立つ。 同時に、私がゴードンさんから教えてもらった情報を使って、局長の周辺にいる
物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運